宮本百合子2

 科学への関心が、いくらか流行の風潮ともなって、昨今たかめられて来ている。いろいろの面から観察されることだろうが、私として頻りに考えられることは、そういう今日の傾向のなかで、科学知識と科学の精神という二つのものが、どんな工合に互の相異や連関を明らかにされて来ているのだろうかという点である。部分的にとりあげれば多極な問題も、根源に横わる鍵はこの二つのものの活きて動くところにあって、特に日常生活に即した面ではこの点が非常に大きく深く作用しているのではなかろうかと考えられる。
 科学的な学識や知識が、素人が考えるより遙かに科学の精神とは切りはなされたままで一人のひとの中に持たれているという場合も、現代の実際にはある。
 或る婦人があって、そのひとは医学の或る専門家で、その方面の知識は常に新しくとりいれているし、職業人として立派な技量もそなえているのだけれども、都会人らしい、いろいろの迷信めいたものも一方にそのままもっていて、それは決してやめない。科学の知識は、極めて局限された範囲内で持っていることは確かなのだろうが、この場合、その人の全精神が、客観的な真実を愛すという科学の精神によって一貫されてはいないことも亦確だと云わざるを得ない。一寸考えると、ありそうもないこういうことが現実に存在する。
 若い女性について、科学の知識は相当ある筈なのにそれが生活の中では一向活かされていない、という非難が屡々云われている。それなども、つまりはそれらの女性たちが方程式の形だのでは可成りの科学知識を与えられているのに、教育のうちに肝心の科学精神を何も体得させられていないために、実験室があるわけでもない日々の暮しの中では、その知識も死物となって行くのだろうと思う。

 二十畳あまりの教室に、並べられた裁縫板に向って女生徒たちが一心に針を運んでいた。
 あけ放された窓々から真夏の蝉の声が精力的に溺らすように流れ入った。校庭をとりまく大きい樫の樹の梢は二三日前植木屋の手ですかされたばかりなので、俄かにカランと八月空が広く現れ、一層明るくまた物珍しい淋しさを瀧子の心に感じさせる。
 生徒たちに向って自分もやはり裁縫板をひかえて坐っている瀧子のうしろに床の間があった。濃い鮮かな牡丹色の小町草の花がありふれた白い瀬戸の水盤に活けてある。これも生徒の製作品である。夏の暑さと教室内の静かな活動とはお互いに作用しあって、ふと気がついてみると、いつか頭の中は休みない蝉の声ばかりになっているような気のする時もある。
 瀧子は永年の習練で敏捷に指先を運びながら、こうやって嫁入前の娘たちばかりが集って夏期講習をうけているのだけれど、そんなことを思ってもいなかった自分が、もしかしたらこの間の誰よりもさし迫って結婚の前におかれているのかもしれないと思うと妙な心持がした。
「縁を切った昔の女が、あなたを取って食うとでも言うんですか」
 話にもならんという風で、ハッハッハと闊達らしく笑いすてた山口仁一の黒い髭の動きが、まざまざと瀧子の眼に浮んだ。大きく腕をうごかして、瀧子が出した団扇で煽いだとき、上衣をぬいだワイシャツの脇から背が風で白くふくらんだ。率直と闊達、それを山口は補習学校でも評判のいい女教師である瀧子に対して自分のとりえとして示すのであった。
「突然あがったりして、無礼な男だとお思いになりませんかとも思ったんですが、僕としては、溝口ゆき子さんがあなたにお話し下さるにしても、どうもそれを待ってばっかりいずに、直接お会いして気持を分って頂く方がいいと思ったもんですから――つまりマア、言ってみれば、僕は年からいっても分のわるい求婚者といった立場ですからな」

 正面のドアを押して入ると、すぐのところで三和土の床へ水をぶちまけ、シュッシュ、シュッシュと洗っている白シャツ、黒ズボンの若い男にぶつかりそうになった。サエは小使いだと思ったらそうではなく、そういう風体でそのへんにハタキをかけたり、椅子を動かしたり動きまわっているのは、制服の上衣をぬいだ巡査であった。
 大きい包みを下げて二階へ上って見ると、ここもまたコンクリートの床は草履のふみどころもないほど水びしゃびしゃで、特高室のドアがあけはなされてある。
 入って行くと、テーブルの上に脚を空に向けて椅子が積んである。特高主任は禿げた頭に頬かぶりをし、鼻と口とを手拭いでつつんでいるし、もう一人別な背の高いのが、
「これもとっちゃった方がいいですね」
と云いながら顎を上向け、よごれた指のあとをつけまいと小指をピンとはねて自分のダブル・カラーをはずしかけている。特高室の誰も彼も上着をぬぎ、チョッキにワイシャツ姿である。
 その日は暮の三十一日で警察ではどこでもかしこでも正月の支度だった。
 サエは、
「おやおやわるいところへ来た」
 そう云いながら、室内に入り、
「――どうでしょう――まだ駄目ですか」
 もっている風呂敷包みを椅子の逆さにのっているテーブルの端に置いた。
「――本庁へきいて下さい。こっちでやったことじゃないんだからね。こっちじゃ分らないから――行きましたか」
「こっちできいて駄目だと云うとき、私の方でヤイヤイ云ってもききめがないと思うんです……もう五日も経つんだからいいんじゃないかしら――着物ですからね、口を利くわけじゃないし……」
 すると、わきから黒チョッキの男が、
「誰へ差入れたいんです?」
ときいた。